中井正一

「た」「一つの方向に直線に走っている力感」としての語感をもつものとして考えて見る。 「方」「手」(方向を指ししめす)「違」(方交う)「副」(手交う)「滝、激」(タギチ)「猛、高、焼〔驍?〕、嶽、丈、竹、感〔威?〕(タケル)」これらのものをじっと見ていると、同じ本質をいろいろの意味に展開しているかのようである。更に「たた」と重なった場合、「正、直、但、唯、徒」となるが、直線感が直線感に重なると、単調の意味を表わすものとなって来るのは、実に病をして篤からしむる所以である。「立、館、縦、楯」「起、発」は又、「裁、絶、断、太刀」と無関係ではなく、皆直線に走る力感に関係が深い。ドイツ語 durch の意味と語感を同じくする。この直線が振れると、「狂言(タフル)、戯、狂、倒」となるのである。こんなに辿ってゆけば、きりもなくそう信ぜられて来るのである。秋夜の独りを淋しくさせないものを用意している。更に方面をかえて、 「は」これを、「限界にまで外に向う拡汎感」をもつ語感の言葉と考えて見るとどうだろう。「羽、葉、匁、端」「放」「散(ハフル)」「元、初、始」「走」「延(ハフリ)」「這」「浜」等に、更に面白いのは、「ハル」の語群である。拡汎して表面が張力をもって漲っている場合、「張、腫、張流(水をはる)、晴、萌(芽出)、春、原、墾、腹、散之(ハラシ)」は、一つのハルの本質に種々の意味群がまつわっているかのようである。この「は」に「た」(直線に走る力感)が加わると、「涯」(ハタテ)、それから「徴」(ハタラ)、「さと長ら我課役(エズキ)徴ばいましもなかむ」と云ったように、「遠くにポーンと徴発されて行ってしまったら悲しいことだ」と慨く、このハタラから、働くは出たんだろうが。「果つ、泊つ、竟、極、尽(ハテ)」等にも又無関係ではあるまい。  もう一つおまけに、「よ」という言葉を考えて見たい。これを「進行過程に於けるその切断的節標」の語感の語と見るとどうだろう。伸びゆく竹の節を目に描いて、その横の節を頭に描いてもらえば、その感じが出るのである。 「節、辨、化、世、夜」の意味群がその何れもが進行している時間、その他の、一つ一つの区切りなのである。進行を止めると、「淀む」「緯、横」となる。それに副って進むと「攀ず」「齢(よ延い)」、それを一つ一つ数えると、「数む」それを音を出すと、「詠む、読む、宣む、喚」この進行が節標にもつれると、「縒る」それが因果的にもつれると、「因る」それが前の「た」と共になり進行の道すじと関係すると、「頼る」となって来るので、ますます病篤からざるを得なくなって来る所以である。